はじめまして、飯田耕平です。
ここでは私の自己紹介をさせていただきます。
ふたご座、へび年、AB型、座右の銘は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
昭和40年生まれ、バブル世代と呼ばれた私たちの世代も50代も後半になってきました。
自分への思いも込めて書いているので長いですが、お時間が許せば、最後までお付き合いいただければ幸いです。
昭和、平成、令和の時代をがむしゃらに生きてきて、気がつけば四捨五入をすると還暦の歳になりました。
基本情報
- 飯田耕平(いいだ こうへい)
- KMSI合同会社 代表
- 定年後の働き方コンサルタント
- サラリーマン生活33年
- 56歳で会社を辞め、57歳ひとり起業
- 国家資格キャリアコンサルタント
- CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)
- 認定ライフシフト・パートナー
- ミドル・シニアの働き方相談
- 「自分軸のセカンドキャリア講座」運営
- パソコンひとつ、自分ひとり、自宅で稼ぐ、「専門家ブログ講座」運営
ここから、私の今までの人生のストーリーを共有させていただきます。
現在までの経緯(幼少期から大学まで)
生まれは神奈川県横浜市、1歳を迎える前に父の転勤で福島県福島市に転居し、東京の大学に入学し上京する18歳まで、吾妻小富士が見える福島市の郊外で父と母と姉とアンガスという犬と幼少時代を過ごしました。
小学校は当時2階建ての木造校舎、学年は1クラスで男16人女22人計36人の、24の瞳よりは大きいですが72の瞳といった感じの、こぢんまりとした小学校でした。
小学校の先生は厳しく、よくビンタをされました。
今だったら大問題です。
ある日、友達グループでお小遣いをもちよって7キロぐらい離れた“街”までプラモデルを買いにいきます。
かわいいスタンドバイミー的な旅行でしたが、次の日に先生に思いっきり怒られてビンタをされました。
そんなスパルタ教師も昔は結構いました。
学校から帰ると、巨人の帽子をかぶって毎日野球をやっていましたね。
当時は野球が大人気で、王選手が714号をうってベーブルース本塁打記録を抜かしたときには、日本中が大騒ぎでした。
今では、大谷選手がベーブルースと比較されていますね。
日本人もすごくなった!
小学生時代は小児喘息の持病があり、そんなに体の強い子供ではありませんでした。
そして、私が小さかった頃は小児喘息の子供はあまりいなかったというか、その病気が気づかれなかったというか、専門治療してくれる医者も少なく、2週間に1回、母が街の病院に連れて行ってくれました。
私の住んでいたところは福島市でも田舎だったため、片道歩き20分バス1時間の道のりを通う一日仕事になりましたが、母はいつもやさしかった。
夜、ぜーぜーして眠れないとそばにいてくれました。
今、私は2人の子供の父親ですが、子供を育てるって大変ですね。
すぐに熱を出すし、自分ひとりで何もできないくせに何をするにもイヤイヤだし。
でも大変だけど可愛いのが自分の子供です。
子供を育てる事で自分も成長します、親になって初めてわかる、親のありがたさって本当ですね。
心残りは、母にそれを伝えられなかったこと、母に妻と子供達を見せる事ができなかったこと。
結婚して子供が生まれる2年前に母は65歳で突然逝ってしまったのです。
私にできることは、お墓に行って「育ててくれてありがとう」と話しかけることだけです。
そんな子供たちも、今では大きくなりました。
中学は福島市立の中学校に通い、バスケットボールをしていました。
中学に入学した時には身長が145センチと小さかったので、少しでも背が伸びたくてバスケットをやって牛乳をのんでいましたね。
高校は受験をして県立の高校へすすみます。
当時の福島の県立高校の多くは男子校と女子高にわかれていたので、私も男子校でした。
この頃やっていたのはテニスです。
ボルグやコナーズ、マッケンローの時代で、ナイキのシューズ、エレッセやフィラのウエアが流行っていました。
「私をスキーつれていって」という映画がはやり、夜間バスでスキーにも行きました。
深夜に出て早朝にスキー場についてスキーをする、今考えると良くあんなきついことできるなと思います。
大学は福島から、開業したばかりの東北新幹線にのって上京し、品川のホテルに泊まって受験、明治学院大学に入学。
18まで過ごした福島、親の元をはじめて離れることになります。
ここから6畳一間の畳の部屋での、はじめての一人暮らしがはじまりました。
トイレ共有でお風呂は無く、銭湯に通ってコインランドリーで洗濯をして、帰りに公衆電話からコレクトコールで実家に電話をかける、そんな昭和の時代でした。
今からかえるという「カエルコール」なんていう広告もありましたね。
はじめてのコンパや飲み会、映画を見たり、ディスコに行ったり、キャンプにいったりいろいろ遊びました。
レストランやスーパーの総菜売り場やピザの宅配などなどアルバイトもいろいろやりました。
バイトでためたお金で、ヤマハのRZ250というバイクを買ってツーリングもしました。
(左が私、若いなあ)
当時は、糸井さんや中畑さんといったコピーライターが活躍していて、糸井さんの「不思議大好き」という西部百貨店のキャッチコピーや、中畑さんのウォシュレット「お尻だって洗ってほしい」などの広告が流行っていました。
私もゆくゆくはコピーライターになろうと思い、宣伝会議が主催する東京コピーライター養成講座に通ってコピーの勉強をしました。
「つめきり」を題材に、CMの絵コンテを書くという課題があったのですが、その時につくったのが、下の「つめきりつめこ」という絵コンテです。
第一企画(当時あった広告代理店)の添田先生という講師にほめられてすごくうれしかったのを覚えています。
大学時代は楽しかったですが、あまり勉強はしなかったような気もします。
都合良く解釈すればいろいろな社会勉強ができました。
現在までの経緯―社会人になって
大学を卒業してからは、人を引きつける広告をつくろう、感動させるようなコピーを書こうと、将来のコピーライターを目指して、TCJという広告制作会社に入りました。
「アロンアルファ」や「マルちゃんの赤いきつねと緑のたぬき」などのCMなどを制作していたCMの制作会社です。
でも、私が配属になったのは、当時華やかに見えたCM部ではなくマーケティングコミュニケーション部でした。
マーケティングといっても本来のマーケティングというよりは、何でも屋です。
私のメインクライアントは輸入車のヤナセ。
DMやポスター、カタログなどのグラフィックも制作すれば印刷もする。 (予算削減のため、キャッチコピーやボディーコピーなどは私が書いていたので、そういう意味では希望通りだったのですが・・・)
看板も作れば、店舗の改築もする。
ノベルティや記念品も作るし、スーパーの店頭イベントも企画して、自分でやる。
ロゴ入りコーヒーカップや、駅張りポスターの媒体もとるし、のぼりやタペストリーを作るかと思えば、
ホテルでショーやプレスカンファレンスを企画運営する。
ラジオCMを作るかと思えばナレータの弁当を買いに走る。
代理店とキャンペーンを企画する。
チューリップの花びらで銀座に絵をつくったり、モーターショーのブースを作ったり、コンパニオンの部屋を手配する。
見積りを作り、クライアントに持っていき、プレゼンをし、飛び込み営業をして、請求書を手書きで何百枚も書く何でも屋です。
広告代理店なんていうと派手な商売と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、一握りのディレクターさんやトップデザイナーやコピーライターの話です。
下っ端には関係ありません、実はとても地味な泥臭い仕事です。
タレントではありませんし、もちろん体育会系ですので、上司に怒られたり、クライアントに怒鳴られたりしながら営業として日夜働きました。
でも仕事はきつかったけど仲間がいました。
先輩やクライアントやフリーのデザイナーさん、プランナーさんの助けをかりたりしながら、鍛えられました。
苦しみながらも楽しさもあり、試行錯誤の毎日でした。
金曜の夕方5時頃になると必ずといっていいほど電話がかかってきます。
クライアントさんから「あ、○○だけど、例のデザイン、月曜でいいから、持ってきてくれる。」
あの当時の広告代理店用語に訳すと、「週末仕事して作れ」という命令です。
この電話1本で週末がなくなり、デザイナーや関係する下請けさんに「帰らないように」と電話をかけて、いやーな顔をされて板ばさみ状態、辛いこともたくさんありました。
プレゼンをしてくれと依頼され、急いで作ってもって行く。
暫くすると電話がかかってきて「担当者レベルではOKだけど・・・」、広告代理店用語で「全く駄目」という意味です。
このころの昭和から平成にかけてのサラリーマンの様子は、このCMがよく表しています。
「24時間戦えますか」
高度成長期から、バブル時代のモーレツサラリーマンですね。
若いときに何でもやって身体で覚えたこの頃の営業やプランニングの経験が、今の私のベースになっているかもしれません。
仲間と働いた良い思い出でもたくさんあります。
広告やプランニング、学ぶことは好きでしたね。(今でも好きですけど)
働きながら平日の夜と週末を利用してデジタルハリウッド(後にデジハリと名称変更)というマルチメディアスクールにも通ったりもしました。
デジタルハリウッド2期生です
当時は秋葉原に小さな教室がありました。1995年のことです。
インターネットも皆知らないような時代でしたが、この時のデジタルとの出会いは大きかったと思います。
はじめてフォトショップやイラストレーターを見たときは驚きましたね。
この頃は、デジタル制作の理論と実務の制作に没頭したのを覚えています。
MACのパワーPCを大金はたいて買いました。(モニターやプリンタなどもいれて100万近くしたと思います)
フォトショップや、今は聞きませんがストラタスタジオという3Dソフトを使って、下のような3Dを苦労してつくったのを覚えています。
当時は、こんなものでも作るにはとてつもない時間がかかりました。
仕事は厳しかったですが、今になって振り返れば、この時の現場の経験、営業経験も後に役にたったと思います。
30歳を過ぎたころ、新しいことを求めて、8年勤めた広告会社を退社してアメリカにわたります。
クリスチャンで奉仕精神のある方のご好意で格安でホームステイをさせていただきました。
コネチカット大学の英語学習プログラムで、1年間語学の勉強をし、人々の感性の違いや文化の違いを肌で感じることができたのは財産です。
楽天的な南米の人たちや、踊りが大好きスペイン人、髭だらけで見るとおじさんのようだけど若いトルコ人、怒ると怖いけど仲良くなると、とてもやさしい韓国人、世界にはいろんな人がいるなあと実感しました。
広告会社時代8年でやっと貯めたお金もそこをつき、1年後に帰国して就職活動開始。
そこで出会ったのがRSコンポーネンツという英国のカタログネット通販の会社です。
2000年にアマゾンが日本に上陸する2年前の1998年、RSコンポーネンツというイギリスのカタログ通販会社が日本でビジネスをスタートさせることになり、開業のための人材を募集していました。
そこで広告会社での現場のマーケティング実務経験と、覚えた英語を武器にマーケティングマネージャーとして働きはじめました。
この時期にダイレクトマーケティング、データベースマーケティングのノウハウを伝授してもらい実践し、トライアル&エラーを重ねながら、日々学びました。
ダイレクトマーケティングの知見を蓄えることができたのは、私にとって大きな収穫でした。
その後は、
・カタログやWebメディアのコンテンツ制作部門をリードしたり、
・グローバルチームとのマーケティング戦略プロジェクトに日本代表で参加したり
・インサイドセールス部門を立ち上げたり、
・カスタマーザービスチームをリードしてコンタクトセンター優秀賞を受賞したり、
・日本のトップであるカントリーマネージャーになったり、
・アジアのカスタマーサービスチーム200人のヘッドとしてアジアやヨーロッパを行き来したり、
皆さんの協力もあって本当にいろいろな経験を積むことが出来ました。
今思えば、ここが私の会社員人生のピークでした。
その後は、懇意にしていただいた本社のCEOが退任し、新しいCEOがリストラをはじめます。
アジア地域の人件費を大きく減らせということになり、その流れの中で2015年に私は自分のチームと一緒に退社することになります。
現在までの経緯―50歳を過ぎて3回の転職
2015年で退職した50歳をすぎてから、なんと3回の転職を経験しました。
1社目は、今までとは違った日本の封建的な会社でした。
常務執行役員補佐という肩書で部長職として入社し、面談の時の話にでたグローバルマーケティングをやって会社に貢献するつもりでしたが、はいってみると状況は違っていて、これといった仕事がありませんでした。
席がないからしばらくここでお願いしますといわれて与えられた席は狭く、チームもなく、みんなどこか冷たい感じの雰囲気で、最悪だったのはパワハラの上司がいたこと。
その上司はいつも上の顔色をうかがっていて、上にはいい顔をして下には厳しい、それでいて口をひらけば自分の自慢をする方でした。
なにかというと部屋に呼びつけつけられて注意をされ、「ああ、この世にこんな上司もいるのだなあ」とショックを受けました。
若い時の広告会社は厳しかったし、仕事もきつかったですが、ネチネチとした感じではありませんでしたし、仲間もいましたが、この会社はよそ者には冷たかった。
自分で企画をつくって持っていったりもしましたが状況は一向に変わらず、ここで働いていても自分はダメになると思い、入社から6か月たった日に辞表を提出しました。
次は何も決まっていなかったので社会人になってはじめてハローワークにいきながら、自分で稼ぐ力をつけるために起業スクールにも通って、新しい方向を切り開こうとしていました。
思い切って起業一本でチャレンジしようかとも考えましたが、子供2人がまだ小学生だったこともあり、再就職活動もはじめました。
しばらくしてリクルーターを通してあるUSの会社から話をいただき、数度の面接を経て入社することができたのはラッキーでした。
この会社が50歳過ぎての転職2社目ですが、ここの日本の社長さんとは気があって重要な仕事をまかされ、楽しく働くことができました。
本社が西宮の甲子園のそばで、初めての単身赴任も経験しました。
ほぼ毎週、大阪と横浜を往復して、年に3回程度はクリーブランドのUS本社や中国や台湾に出張する忙しい日々が続きました。
このまま順調にすすむかなとおもったところ、入社から3年たった時に、またもやUS本社のCEOが変わり、この余波を受ける形で懇意にしていただいていた日本の社長も退任ということになります。
本社のCEOと日本の社長が変わり、今まで進めていた戦略が大きく変更されると、社長と一緒に改革を推進していた私への風当たりも強くなりました。
風当たりが強くなったというよりも、重要な案件から外されるようになったというほうが正しいでしょうか。
そんな時に、また別のリクルーターから3社目から声をかけていただき50歳過ぎての3回目の転職となります。
この会社はモバイル系の会社で私が今までいたネット通販や製造業の業界とは大きく違いました。
もともと変化の激しい業界だったところに、当時の菅首相の携帯料金引き下げの大号令もあり、さらに大きな変化が押し寄せていました。
まだ会社ができて5年程度の若い会社だったこと、私にとってはじめての業界だったこともあって、入社してからは内容を理解して追いつくのが精いっぱいのような厳しい日々が続きました。
コロナのために入社してからずっとリモートで、1年たっても1度もあったことがない人がほとんどでしたし、皆が日々忙しく厳しい状況だからこそ人を大切にしようと思いチームメンバーとのコミュニケーションは特に気をつかっていました。
ところが入社から1年たったある日、社長と人事によばれます。
そして突然の降格を言い渡されました。
私にとっては、まさに寝耳に水で、いったいなぜなのかわかりません。
理由を聞いても何かはっきりしないのですが、今のポジションから外れてくれとのこと。
会社を相手に争おうかとも少し考えましたが、けんかをしたところで何も良いことはないと思いました。
これからどうしようかと考えている時に、思い出したのが50歳すぎてからの1回目の転職のあとに一度あきらめかけた起業のことです。
50歳をすぎてから3社で働いてきました。
自分の精一杯をだして働いいたのですが、3回とも結局は長く続けることはできませんでした。
特に3社目の降格は、いまだにわけがわかりません。
「なんでだろう」と自問しました。
結局、会社員にいる限り、人に雇われている限りは、自分の力ではどうしようもないのです。
悔しいけど、自分の人生を自分でコントロールできない。
元GEの会長、ジャックウェルチがいいました。
Control Your Own Destiny or Someone Else Will
(自らの運命をコントロールせよ。さもなければ、他人にコントロールされることになるだろう)
まさにこれです。
人生100年時代になった今、会社に運命を握られていることはさらに大きなリスクだと改めて思いました。
いつ突然ほうりだされるかもしれませんし、そもそも会社は定年後の面倒を見てくれません。
だからもう新しい会社をさがすことはやめて、自分で仕事をすることにしました。
自分で稼ぐ力をつけることにしました。
自分の運命は自分でコントロールできるように。
インターネットが発達し、コロナもあってリモートワークも急速にひろがった今の世の中、ネットにつがながったパソコンひとつあれば、自分ひとりで自宅で稼げる時代です。
自分さえしっかりしていれば、十分にやっていける環境があるのです。
私のライフマップ
はやいもので平成元年に会社員として働き始めてから30年以上の月日が経ち、今思えば楽しかったこともつらかったこともありました。
自分の今までのキャリアを振り返るためにライフマップを書きました。
私のライフマップは人生のタイムラインと、そこで起きたイベント、そして感情の浮き沈みを線で書いています。
左から右に行くにしたがって時間(年齢)がすすみます。
真ん中の線より上がプラスの感情、下がマイナスの感情です。
こうやって見るといろいろなことがあったなあと改めて思います。
楽しいことも辛いこともありました。
たしかに人生はジェットコースターのようなものなのだなと今振り返れば思います。
ピンチはチャンス、また新たなスタートです。
昔、広告会社に勤めていた時に、私が書いたコピーをみつけました。
新人採用のための自社の広告です。
「自分したい、自分じたい、自分しだい、自分じだい」
不思議なものでこれを書いた時から30年あまりの時がたった今も、このころと気持ちは変わっていないなあと感じます。
50代も後半にはいった今から、自分が主役の人生を生きようと思います。
自分で自分の時代を作りたいと思います。
そのために、2023年4月、KMSI合同会社を設立し、ひとり会社のひとり社長になりました。
定年後60歳からの人生の黄金期をワクワク生きよう
私の50年プラスの人生で浮き沈みがあったように、昭和から平成そして令和を生きてきた、50代60代の方はそれぞれいろいろな思い、浮き沈みを経験していると思います。
人生100年時代といわれますが、右肩上がりの経済成長はとまり、高齢化がすすみ、もう年金だけにはたよれません。
老後資金が2,000万不足するといった話もあり、これからの人生を楽観視するのはなかなか難しいかもしれません。
でも実は60歳からが「人生の黄金期」なのです。
第二の青春という人もいます。
一方で、先人の多くが50代の時を振り返って1番後悔していることは、
「50代の時に人生設計をしておけばよかった」ということだそう。
いいかえれば、50代のうちに60歳から先の人生設計をして準備をしておくことで、60歳からはじまる人生の黄金期を自分でコントロールできる、自分が主役のワクワク人生にすることができます。
50代は、野球でいえば同点の9回、サッカーなら後半40分あたり、テニスでいえば6-6からのタイブレーク 40ALLなのかもしれません。
今まであまりうまくいかなかった人でも逆転可能な年代です。
人生100年時代に対応するためには、50代のうちに会社にたよらず、自分で稼ぐ力をつけることが必要だと考えます。
実際、老後資金は2,000万でも全く足りないかもしれません。
そもそも60歳や65歳で引退して仕事をやめようとするから老後が破綻するのだと思います。
辛い会社にしがみついて65歳までなんとか働こうと思うから苦しいのです。
少なくても私はそうでした。
理不尽な評価や降格などでも耐えていくしかないとも思いました。
でも考え方を変えて、会社を辞めました。
自分の人生を自分でコントロールすることにしました。
自分のやりたいことをやって仕事を生きがいとして、長く稼ぐことで老後資金の不安も吹っ飛びます。
昭和、平成、令和を生き抜いてきたみなさん、自分が主役の人生を一緒にすすみませんか。
私はサラリーマン生活には見切りをつけましたが、すぐに会社を辞める必要はありません。
定年後も面倒をみるのをやめた国と会社は副業もみとめはじめています。
ますは働きながら好きなことを軸に始めればよいのです。
自分軸のセカンドキャリアを見つけましょう。
時間は取り戻せません。
はじめるなら今です。
ワクワクすることで稼ぐ力を身につけましょう!
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- デジタルハリウッドMac総合プロコース終了
- PSS(Professional Selling Skill)コア修了
- TOEIC 850
- リーンシックスシグマ ブラックベルト研修修了(東芝人材開発株式会社)
- アンテレクト:銀座コーチングスクール修了
- アンテレクト:コンサルタント養成講座修了
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- ベストコンタクトセンター優秀賞受賞(外資系ネット通販)
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